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新海誠監督の「天気の子」での表現に対する自覚について(の、2019年公開当時に書いたまま放置してた未完成テキスト)

 2022年11月12日に公開2日目の「すずめの戸締まり」を鑑賞してきました。響きすぎて終盤でボロ泣きしました。人によってはとても苦しい映画かもしれないけど、出来れば前情報無しで見に行って欲しい作品です。

 映画を観ていて、以前から思っていた新海誠監督の「表現に対する自覚」を再確認しました。これについては伏せったーでちょっと書いたのでこちらもどうぞ。「すずめの戸締まり」の完全ネタバレなので注意。


 この伏せったーの文章を書いている時、同じ事を「天気の子」公開時にも書いた筈だと思ったんですが、ネットを検索しても見つかりませんでした。それで、ローカルストレージを確認したら、書きかけの当該テキストが見つかりました。どうやら、当時最後まで完成させずに放置していたようです。せっかくなのでアップすることにしました。

 以下、2019年7月22日に書いた記事です。ちなみに「天気の子」の公開日は2019年7月19日です。所々未完成で文意が繋がっていない箇所がありますが、当時の感覚を弄りたくないのでそのまま公開します(明らかな文法のミスや誤字脱字は適宜修正しています)。ちなみに、「★」がついている行は、後から追記や推敲する為に土屋がつけているマークです。なのでそのマークの前後は下書きみたいな感じです。空行が続いている箇所は、後で順序を入れ替えたり、繋がりを補強するつもりだった箇所です(今となってはどう更新するつもりだったのか覚えていませんが)。

 「0722_天気の子エッセイ.txt」は、これを書いたファイルのファイル名です。当時と今では土屋自身の感覚も変わっていますが(人物以外の「狂う」は、実際にはここで書いている程には校閲で忌避されないかもしれない)、雰囲気だけでも伝わればと思います。

0722_天気の子エッセイ.txt

★「倫理コード」という言葉は使わず「自主規制コード」とかにした方が良いか?

 商業小説を世に出す場合、その原稿は必ず校閲という処理にかけられる。校閲では校正者と呼ばれる専門職の方が原稿を精査し、誤字脱字を始めとして、文法や物語構造のミスなどをチェックし、ゲラ(原稿を実際のレイアウトで印刷した物)に鉛筆で「こう直すべきではないか」という趣旨の提案を書き込む。
 校閲を終えたゲラは著者に送られてくる。著者は校正者の指摘を全て確認し、一つずつ、「提案を受け入れる」「受け入れない」を赤ペンで書き込む。これを「赤入れ」と言う。場合によってはこのタイミングで文章自体を変更することもある(土屋はこれが非常に多く、編集さんに嫌がられる)。この赤入れが原稿に反映され、最終的な原稿となる。
 なぜこんな作業が必要なのかと言えば、人間の目は実はかなりいい加減で、明らかに間違っている誤字脱字を平気で見逃してしまうからだ。校閲から戻って来たゲラを見ると、あまりの指摘の多さ(1ページ中に何か所も指摘がある)にクラクラしてしまう。しかも、これを基本的には2回(初校と再校)繰り返して、ようやく商業出版可能なクオリティになるのだ。

 さて、校閲作業には文章の論理的なミス以外にも、大切なチェック作業がある。それは差別表現のチェックだ。作者が意図しない差別表現を作中に入れ込み、それによって読者の中に心を痛める人がいてはならないし、それによって出版社にクレームが入るのは商業的に不味い。
 ところが、法律的には禁止表現という物は存在しない。
(2022/11/13土屋注:ここは前後の行で文意がまったく繋がっていません。「法律で禁止されている表現という物は存在しない。しかし、現実的には商業では使えない表現が沢山ある」と書きたかったのだと思います)
 例えば、「百姓」は基本的に使えない(「農民」にするべきと指摘される)。「外人」もダメだ(同「外国人」)。驚く人もいるかもしれないが「八百屋」も良く校正で指摘される表現だ(同「青果店」)。何故「八百屋」がだめなのか、実は土屋は知らない(日銭稼ぎの仕事を軽蔑する意味で「屋」をつけているとも聞くが、本当に?)。
 個人的によく書きがちなのは「片手落ち」。これは「「片手がない」を想起させるから」という理由で放送禁止用語になっていて、出版でも踏襲されている。しかし、これは「片落ち」が語源だし、バシッと同じニュアンスで言い換えるのが難しいと思う。
 繰り返すが、禁止表現は自主規制だ。起こり得るリスクをあらかじめ回避するための作業であって、実際にその表現にクレームを入れる人がいるかどうかはあまり重要ではない。
 「天気の子」と無関係の話を長々として申し訳ないが、いよいよ本題に入る。このような自主規制を敷いている現在の出版において、特にセンシティブなワードに「狂う」があるのだ。
 当初は「きちがい」という言葉が、精神障害者、知的障害者に対する差別表現であるとされ、これが放送禁止用語になった。その後、「気が狂う」「気狂い」なども対象となり、現在では、気が変になる事をさして「狂う」という表現を使うこと自体がNGになっている。「気が狂う」や「発狂」はもはや日本の文芸では使えない言葉だと思う。
 繰り返し言うが、これは自主規制であり、校正からこのような指摘を受けても、著者は「意図をもって書いているので変更しない」と突っぱねることができる。しかし、再校で必ず再指摘されるし、編集者も作者を説得しようとするので、大抵の場合、修正を受け入れることになる(と思う)。「気が狂う」を「頭がおかしくなる」に言い換えれば入稿できるのに、そこにこだわる意味はあまりないからだ。
 ここでようやく「天気の子」の話になる。
 天気の子では「世界が狂っている」「天気が狂っている」というセリフが数回出てくる。これは人ではなく環境に対しての指摘なわけだが、これも普通なら校正が機械的に弾く言い回しだ。もしこのセリフを聞いてドキッとしたのであれば、それは恐らく、商業創作物の中で「狂っている」という言葉を聞いたのは久しぶりだから、かもしれない。
 「天気の子」は角川文庫から小説版が出ているので校正から再三指摘されるだろうし、脚本ができた時点で沢山の大人が言い換えるように申し出た筈だ。しかし、新海誠はそれらを全て突っぱねて「天気が狂ってもいいんだ」と叫ばせた。基準の曖昧な倫理コードよりも、物語に必要な表現を優先した端的な例が、これだ。
 これは、なかなか勇気のいることだ。

 校正からは「天気がおかしくなってもいいんだ」と直すよう指摘が入った筈だ。映画の脚本を校閲にかけることは無いだろうが、倫理コードのチェックは制作委員会のいずれかがしている筈だ。


 「天気の子」には、このような表現が無数にある。冒頭、雨の歌舞伎町のファーストシーンで、「バーニラ、バニラバーニラ求人♪」という歌と共にアドトラックが通り過ぎる。新宿で活動する人にはおなじみの光景で、あれは女性向け風俗系求人サイト「高収入求人情報バニラ」が走らせているアドトラックだ。土屋は初見であのシーンを見た時「これ、地上波で流せるのか?」と感じた。

★余談だが、あのトラックが歌舞伎町を象徴するランドマーク(?)になっていたのは既に少し前の話で、2019年7月現在は各ホストクラブの看板ホストの写真をまとったアドトラックが歌舞伎町の「顔」になっている。

 その後、穂高は身分証のいらないバイト候補として風俗店のボーイの仕事を探す。未成年の主人公が風俗店を渡り歩くアニメ(それ以前に商業創作物)がこの数年間にあっただろうか? 更に言えばこのすぐあとで、ヒロインがデリヘル嬢としてホテルに入っていこうとするシーンもある。これは未遂に終わるが、夏休みど真ん中の映画でよくこんな話を書いたものだと思う。

 まだまだ続く。子供たちは警察から逃れるためにラブホテルに逃げ込み、そこで一泊する。キラキラ光るジャグジー風呂や楽しそうな夕食会の雰囲気を見て、子供に「ここに行きたい!」と言われたら、親は困ってしまうだろう。これも映画の興行主的には避けたい所だろう。「子供に銃を撃たせる」というのも今の時勢的には避けたい所だ。
 少し気になっているのは、これだけ倫理コードをぶっちぎっていながら、自転車は借りパクできず(ロックがかかっている)、夏美と2ケツでバイクに乗る時はちゃんとヘルメットをしている(穂高の分はどこから出てきたんだ?)。この意図はよくわからない。倫理コードは突っぱねられるが、交通法規はそうではなかったのだろうか?
 閑話休題。個人的に極めつけだと思っているのは、穂高が中野(2022/11/14土屋注:代々木の間違い。以下同じ)の廃ビルを目指して線路の上を走るシーンだ。穂高は鉄条網に顔を引っかけ、頬から血を流しながら、整備員や駅員の呼びかけを無視しして線路の上を走り続ける。BGMも相まって、非常に印象的なシーンだ。
 しかし、正直に言ってこのシーン、線路の上を走る必然性があるように思えない。演出的にも、ここまで来て穂高が「レールの上を走る」必要は無い。新海誠が線路を描きたかっただけでは? とすら思えてしまう。
 倫理的にも大NGだ。創作物で子供に取らせる行為としてはタブーに近い。想像するに、多くの大人が新海誠に「子供が真似して線路に侵入してしまったりしたら不味い」と言った筈だ。「走らせるにしても他の道があるでしょう」と。しかし、新海誠はそれも突っぱねた。恐らくは「穂高が自発的に倫理コードを犯しているシーン」を描きたかったのではないだろうか。
 これは中野の廃ビルについても同じことが言える。あの廃ビルは取り壊し予定ながら2019年7月現在は実在していて、中はとても危険な状態になっているようだ。なんと公開初日には警備員を配置して誰も登ってこれないようにしていたらしい。何度も言うが夏休み映画である。これを見た子供が廃ビルに忍び込んで怪我でもしたら大変な事になる。いや、「本当に大変なことになる」かはどうでもよくて、少なくとも大人はこのリスクを避けようとする筈だ。しかし、これも新海誠は突っぱねている。

 お分かりだろうか。新海誠は、物語上必要な表現を実現するために、倫理コードをぶっ飛ばしているのだ。

 これは、「君の名は。」の成功があってこそ可能な事と言える。新海誠はインタビューでもこのように言っている。
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――『君の名は。』が歴史的ヒットになったことは創作に影響を与えましたか?
そういう影響はありません。むしろ今回はこちら側の裁量権が広がって、何をやっても許される感じになったことが単純にうれしかったです。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1389
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★ここで書いている「倫理コード」というのは、要するに「会社(作者)にとって、避けられるリスクはあらかじめ避ける」くらいの物だ。

 
 新海はどうしても「狂っていてもいい」という言葉を使いたかったのだ。

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僕が最初に描きたいと思った帆高の叫びは、政治の言葉でもないし、教科書に載るような言葉でも、報道の言葉でもない。人の純粋な思いを叫びにすると、それは一般的には流通できない言葉になってしまったりもする。でもそれはエンターテインメントという形であれば、表現できるし、そこで気持ちを動かされる人はたくさんいてくれるはずです。この映画が最終的に描くものについて、反発するにせよ、よかったと思ってもらうにせよ、映画館でかけていただくにふさわしいアニメーションができたとは思っています。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1389
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★子供がそれをしたら、大人が責任を取るべきであり、子供の可能性を制限してはならない(とかなのか?)
 


 新海誠は「天気の子」において、これらの倫理コードが、商業創作において絶対的な禁止事項ではないという事を証明した。「君の名は。」の成功で獲得した裁量権があったからこそ実現できた事だ。新海はそんな冒険をせず、もっと安全側に軸を置いた新作を作ることもできた筈だ。しかし、やるなら、タイミングとしては今しかなかったと言える。
 これが表現者たちに対するエールでなかったら、一体なんだと言うのか?


 今後僕らはこう言える「大丈夫です。天気の子の小説でも使ってますから」



 突然世界が裏返ったりはしない。これからも、「八百屋」は「青果店」に、「外人」は「外国人」に、「気が狂う」は「頭がおかしくなる」に校正されるだろう。土屋は「片手落ち」をどう言い換えればいいか毎回迷うことになるだろう。
 しかし。
 しかし、それに抵抗する事は可能だ。「表現上必要だから」という理由で突っぱねる事は可能だ。少なくとも、新海誠は、夏休みど真ん中映画で、多数のスポンサーから莫大な制作資金を得たアニメ作品において、それをやってのけたのだ。
 ならば、どうなる?
 次は?
 次は、我々の番なんじゃないか?